アルバム「COUKA」をリリースしたジャン・コルティ。
3作目のアルバム「FIORINA」 の中にある「老人たち」という曲はジャック・ブレルの詩にコルティが曲を付けた名曲です。
老いと死を自然と受け入れ、静かに淡々と時を過ごす姿が綴られています。
「金もなく惨めで、夢などとうにないが、思いやりがあるばかり」、
「香辛料とラベンダー、こざっぱりした匂いとともに昔の言葉が行き来する」
美しくも独特な死生観で描かれた老後。
「老人たち」と呼ばれる年代になってようやくデビューしたコルティ。果たしてコルティは若かりし頃に自らが作曲した曲を演奏してどんな感慨に浸ったのでしょうか?
今回はコルティの遍歴を紐解いて、ミュゼットと共に歩んだ生涯に近づいてみたいと思います。
Jean Corti
Anti-Fascist resistance
ここからは、ジャン・コルティの波乱(?)に満ちた人生を。
前述したように1929年北イタリアのベルガモのアルメという村に生まれました。
当時イタリアはファシスト党による内乱から次第にファシズム体制となり、ムッソリーニによる独裁政権下でした。
そして、ジャン・コルティの父はファシズムには非協力的で国家から監視される対象とされていました。
出典:https://ja.wikipedia.org/
このため村人達は、まだ拘束される前にアルメ村を、さらにはイタリアを出てフランスへ退避した方がいいと進言し、コルティ一家はフランスへ移住することになります。
フランスでも北イタリア移民の多いリュエイユに移住し、取り敢えずは落ち着くことになりますが、一家は僅かの金銭しか持たない上に、フランス語も堪能ではなく苦労を強いられます。
しかしコルティはまだ幼少期、フランス語にそしてフランスに馴染むのも、さほど苦難ではなかったと言います。
そして12歳の時にナンテールに再び居を移した際、生涯の“伴侶”と出会います。
それはナンテールで知り合ったイタリア人に勧められたアコーディオンでした。さらに幸運だったのは、それを譲り受け、自由に弾く時間が与えられたことでした。
「それはすでに戦争中のことで、1941年のことだったと記憶している」
metacompany.jp『ジャン・コルティが語るアコーディオン人生』より引用
とコルティ自身は語り、
「ラジオからはティノ・ロッシ、リナ・ケティー、リュシエンヌ・ドリール、フレールなどが聞こえていた。私は自分の部屋にひとり籠って、何時間も何時間も弾いていた。」
metacompany.jp『ジャン・コルティが語るアコーディオン人生』より引用
とアコーディオンに熱中していた少年期を回想しています。
その後イタリア移民の集まりでアコーディオンを披露したのをきっかけに、カフェで演奏するようになります。戦時中であったにもかかわらず、若干15歳の若さでアコーディオン奏者として生活の糧を得ます。
musette
しばらくすると、ダンシングと呼ばれる若者が集い踊る、今でいうクラブのような場所での生バンドの一員として演奏する仕事を得ます。
さらに時間の空いた日中は、ミュージシャンとして不可欠のスタンダードナンバーやアコーディオンの演奏技巧を習得するために、先人達の集うカフェに出向き、文字通りアコーディオン漬けの日々を送りました。
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気付けばコルティは25歳になっていました。
新たな活躍の場を模索していたコルティは、アコーディオン以外にもアルトサックスやコントラバスなどの楽器の演奏も習得します。そしてミュージシャンとしてキャバレーでの仕事を得ることになります。
それは今までとは全く違う世界で、レベルも高く、当然要求される演奏も多岐にわたるものでした。
様々なタイプの歌手の伴奏を務め、経験、知識を積むには絶好の機会となったのです。
Jacques Brel
そして徐々にコルティの実力が認められていく中、ジャック・ブレルと出会います。
ジャック・ブレル
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この時既にジャック・ブレルは歌手として名声を得ており、ラジオでは頻繁に彼の歌が流れていたほどでした。
ブレルはそんな多忙の中のバカンスで、コルティは楽団と共に仕事で訪れたコートダジュール地方の保養地で偶然出会いました。
コルティの演奏を一目で気に入ったブレルは、すぐさまコルティのもとを訪れ、杯を交わします。
しかもその後、コルティの公演期間中は毎日訪れ、飲んでは語り明かし親交を深めました。
意気投合した彼等でしたが、その至福の時間はあっという間で、各々の生活に戻っていきました。
「いずれまた、どこかで」という言葉を残して。
興行を終えパリに戻ったコルティ。
この興行の前年にコルティは結婚しており、この時のことをコルティはこう回想しています。
「私は音楽から足を洗うことを考えていた。私は音楽に飽き飽きしていた。私の妻はナンテールの美容院を買い取り、私はそこで美容品のセールスマンにでもなろうと考えていた。」
metacompany.jp『ジャン・コルティが語るアコーディオン人生』より引用
しかし運命が彼を引き留めました。
当時ジャック・ブレルのマネージャーをしていた人物から偶然、声が掛かります。
ジャック・ブレルのツアーに同行できるアコーディオン奏者を探しているとの事。
引退を考えていた矢先の唐突な仕事依頼。しかし、妻の勧めもあり“最後の”仕事としてブレルの伴奏をすることに決めました。それはブレルにとって、唐突な再会となりました。
「やあ、ブレル。元気かい?」
「おお、コルティか、おまえここで何してるんだ?」
metacompany.jp『ジャン・コルティが語るアコーディオン人生』より引用
1960年から1966年までの6年間コルティはブレルと行動を共にし、過酷なツアーに、楽曲制作にと務めました。
やがてブレルは、1966年にツアーから身を引くことを示唆、1968年にはステージからの引退を宣言。
コルティとの活動にも終止符を打つことになりました。
再びパリに戻ったコルティは南フランスへ移住し、隠遁生活を送り始めます。
ブレルとの活動を“最後”としていたこともありますが、既にこの時代「ミュゼット」に対しての需要は低下しており、世はロックなどの音楽が席巻していました。
この時代の流れもコルティの隠居の後押しとなってしまいました。
Jo Privat
しかし、彼の太陽と豊かな自然に囲まれたのんびりとした田舎生活は、たまたまバカンスでコルティの暮らす南仏の田舎を訪れた人物によって、またしても中断せざるを得ませんでした。
ジョー・プリヴァ
出典:http://lesanneesvaillant.fr/
その人物とは、コルティの大先輩にあたるミュゼット・アコーディオン奏者の代表格の人、ジョー・プリヴァでした。
「こんなところでおまえは一体何をしているんだ?南仏人はアコーディオンが好きじゃないし、冬には墓場同然だ。おまえに仕事をやるからパリに出てこい。」metacompany.jp『ジャン・コルティが語るアコーディオン人生』より引用
こう言い放つとコルティを再び表舞台へと連れ戻し、楽曲を共作し、メディア出演を果たすなど精力的に活動を始めます。
そしてなんといっても、「パリ・ミュゼット」というオムニバス・アルバムにコルティを参加させたことでした。
この「パリ・ミュゼット」シリーズのアルバムは、パリ・カフェ音楽への再評価を促し、好セールスを記録します。そして、それまでアコーディオンなど見向きもしなかった若い世代にも、強烈なインパクトを与えたのでした。
Les Tetes Raides
再び表舞台に顔を出したコルティに、一人のジャーナリストがあるバンドを紹介します。ルノー自動車工場の社員食堂のランチタイムに演奏をしていたLes Tetes Raides(レ・テット・レッド)でした。
「彼等の演奏は私とは縁のない音楽だったが、面白そうな連中に映った。」
とコルティは振り返っています。
レ・テット・レッド
出典:https://fr.wikipedia.org/
ここでも彼らと一杯酌み交わし、意気投合しました。
ミュゼットの需要が減っていた1970年代の半ば。
音楽シーンではパンクロック・ムーブメントが起こり、ロックはある種のピークを迎えます。
僅か数年の短命のムーブメントでしたが、その崩壊後、ロックは混沌としていきます。
そして新たなサウンド、スタイルを模索して様々なジャンルが乱立します。
そんな中、ルーツ回帰的な要素を取り入れたバンドも出現してきます。
フランスではLes Negresses Vertes(レ・ネグレス・ヴェルト)が人気を博し、レ・テット・レッドもオルタナティヴ・シャンソン・グループと言われ独自のジャンルを確立していました。
ロックの台頭により、ミュゼットが衰退。
コルティを隠居生活へと追い込んだ要因の一つとなったのですが、皮肉なことに今度はそのロックが、コルティを必要とし再び表舞台に立たせることになったのです。
その後、リーダーのクリスチアン・オリヴィエは自分達のライブにコルティを招き、共演を重ね、コルティも快く彼等と演奏、準メンバーのような存在として関わるようになります。
そしてこのような関係からコルティのソロアルバムがリリースされる事となります。
戦時中のパリのカフェで、ジャック・ブレルの伴奏として、長年に渡りアコーディオンの歴史を生きて来たコルティでしたが、自身のアルバムなど無く、常に伴走者としてミュゼットを支えてきた立役者でした。
70歳を超えてようやく彼の音楽が日の目を見ることになったのです。
FIORINA
前述したようにコルティはイタリアからの移民。
慣れない地での生活は、苦労を強いられたであろうと容易に想像できます。
そんな時イタリア系移民が口に出すのが、「左官屋」と「水道工事屋」で、体力とちょっとした技術さえあれば何とか生計を立てることができる仕事として、この二つを引き合いに出し、自嘲気味にその苦労を例えていました。
「アコーディオンのことなんて、俺は何も言うことなんかない。もうこいつのおかげで俺はずいぶん前から文無しだ。もう50年以上もずっとだ。俺は違うぜ、俺は水道工事屋さ」1.俺は水道工事屋さ(邦題)
こんな調子で始まるジャン・コルティ3枚目のアルバム。
前作「Versatile: きままなジャン」から2年後にリリースされました。
FIORINA (2009)
出典:https://www.amazon.co.jp/
- Le Plomblier
- Madeleine
- Jolie Mome
- Indecise
- Il Boit L’Fond
- Les Toros
- A Paris Dans Chaque Faubourg
- Le Vieux Léon
- Göttingen
- Idylle
- Les Bourgeois
- Les Vieux
- Barcarolle
- Douce France
- Stephanie
- Fiorina
アコーディオンなんてどうでもいい。ノコギリでバラバラにしてしまおうか?
先述のようにやや自虐的なユーモアを含んだ1曲目を象徴するかのようなジャケットです。しかし、内容はこれまでのコルティの演奏遍歴を辿るかのような多彩な楽曲が詰まったアルバムです。
盟友ジャック・ブレルのためにジャンが作曲した永遠のスタンダードから、ジュリエット・グレコらのシャンソン佳曲まで、トマ・フェルセン、オリヴィア・ルイーズ、ラシッド・タハ、アラン・ルプレストら個性派歌手と共演しており、まさにコルティの集大成と言えるでしょう。
もともと大衆音楽、ダンス曲として派生したミュゼット、陽気な曲調も多く、古き良きパリの下町を想像させ、そこに生きる人々の息吹を感じさせてくれます。
そんな楽曲から哀愁を帯びた楽曲まで、まるで人生の喜怒哀楽を見るかのようです。
そしてそれらの曲を微塵の力みも感じさせず、軽々と演奏するコルティの圧倒的な力量。
彼の懐の深さと確かな技法なくしては成し得なかった名盤です。
ご試聴はこちら↓
Chromatic Accordion
12歳のジャン・コルティが初めて手にした楽器。
「それは大した値うちのないクロマティック・アコーディオンで、私の記憶によると三列キーとの80ベースのものだった。」
metacompany.jp『ジャン・コルティが語るアコーディオン人生』より引用
当時の回想で彼はアコーディオンとの出会いをこのように語っています。
全てはここから始まりました。
混乱の時代、困難や苦に遭いながらも、したたかに、そして陽気に生き抜いた人物が奏でる音は理屈ではない圧倒的な存在感と説得力があります。
彼の人生を重ねて再度耳を傾ければ、そこには生き生きとしたパリの情景が浮かび上がってきます。
普遍的な“生きる力”の存在を垣間見ることができるのではないでしょうか?
「俺はだいたい10年に一度アルバムを作るんだから、次は10年後に再会しよう!」
アルバム「FIORINA」完成披露ライヴの後、こう言ってステージを後にしました。
実際のアルバムのリリース年月とは隔たりはありますが、そこは、彼なりのご愛嬌ということで。
ただ、その10年という時間は少し長すぎたかもしれません。
ジャン・コルティ。2015年永眠。86歳でした。