JEAN CORTI(ジャン・コルティ)。
72歳にして初のソロアルバムをリリースしたフランスのアコーディオン奏者。
当然、何処かから降って湧いてきたわけではなく、アコーディオンの歴史を生きてきたと言っても過言ではない大御所の遅すぎるソロデビュー。
老衰など無縁の演奏は圧巻。表情豊かなアコーディオンの音色。
“ミュゼット”の名手と言われた彼の音を辿ります。
COUKA
COUKA (2001)
出典:https://www.amazon.co.jp/
- Amazone
- Coudes A Coudes
- Violine
- C’etait Bien
- Si Versailles M’etait Conte
- Cabotine
- Le Temps Des Cerises
- Couka
- Le Chaland Qui Passe
- Tocade
- Makako
- Amazone
こちらが2001年にリリースされたジャン・コルティのソロデビューアルバム。
前述のようにこの時、御年72。
長年、アコーディオン奏者としてパリの街を彩ってきたコルティ念願の、オリジナルアルバムを制作するという夢が実現した会心の1枚。
このアルバム、クァルテット演奏による1.「Amazone」と題された美しいワルツ曲に始まり、再びジャン・コルティソロによる同曲の演奏で閉じられています。
印象深いナンバーです。
ちなみにをAmazone(アマゾンヌ)とは女性が横乗りに乗馬する姿を意味するもので、名実ともに気品の高さと優美さを漂わせる名曲です。
この他、7.「Le Temps Des Cerises」(さくらんぼの実る頃)ではシャンソンの名曲を、
11.「Makako」ではボサノヴァを披露し、キャリアを感じさせます。
また、このCOUKAはコルティのソロ演奏の曲と、 Les Tetes Raides( レ・テット・レッド)のセルジュ・ペグー(ギター)ジャン=リュック・ミヨ(ドラムス)によるトリオによる演奏、そして名うてのジャズ・ミュージシャンとのクァルテットによる演奏という構成でレコーディングされています。
このレ・テット・レッドというバンド、後述しますがジャン・コルティを再び第一線へと誘った立役者でもあります。オルタナティヴ・シャンソン・グループとしてフランス内では圧倒的な指示を受けているバンドで、90年以降はジャン・コルティに演奏をオファー、共に活動をしていました。
そしてその年齢差など関係のないシンパシーは、新たなコルティの第一歩として結実したのです。
フランス・パリをイメージさせる美しくも切なく、哀愁漂う音色。
そしてジャン・コルティの含蓄のある円熟の演奏が、豊かな表情を見せています。
デビューアルバムにしてコルティの代表作ともいわれる名盤です。
ちなみにCOUKAとはジャン・コルティの愛犬の名前。
ライナーノーツにも登場しています。
ライナーノーツ裏表紙より抜粋
そしてこの愛嬌あるアルバム・ジャケットはレ・シャ・プレによるもので、レ・テット・レッドのジャケット・デザインも手がけています。
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musette
ジャン・コルティ。
1929年、北イタリアのベルガモ生まれ。
4歳の時に一家と共にフランスに移住。
15歳で楽団アコーディオニストとしてデビュー。
その後音楽界で活躍するも、時代の流れと共に第一線から退き、南仏で隠遁生活を送っていました。
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そんな彼を再び表舞台へと導いたのが90年代にリリースされた「パリ・ミュゼット」というアルバムでした。
ラ・リシェールというレーベルが手掛けたアコーディオンセッション集で、この制作にジャン・コルティも招聘されました。
この一連の流れによって、アコーディオンという楽器への再認識が高まると同時に、その名手と言われたジャン・コルティの存在もクローズアップされるようになりました。
そもそもこの「ミュゼット」とは何か?ここで少し「ミュゼット」について。
分かり易く言うと、
『フランス=パリ=シャンゼリゼ通り=お洒落なカフェ
=そこで流れているチョッと哀愁漂うアコーディオンの音色。』
といった定番のイメージを抱いて頂ければ、取り敢えずはOKかなと思います。
「ミュゼット」=「パリ・カフェの音楽」といった感じで。
遥か遡ること1800年代。フランスは革命により自由主義とナショナリズムが広がりを見せ、さらに産業革命による急速な近代化によって激動の時代を迎えていました。
この1800年代も後半になると、ヨーロッパ諸国では各国の事情もあり、出稼ぎの為や生活手段として多くの人々がフランス国内、国外を問わず往来するようになります。
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その結果、中心都市として賑わっていたパリには多くの人が集まって来ました。
そしてこの「ミュゼット」の始まりとなるのが、こうやって集まってきた、イタリア人とオーベルニュ人でした。
日々の仕事を終え、食事や談話を楽しむのはいつの時代も同じ事。
当時のパリでも同郷の者達がカフェやバルに集うようになり、そこで自然と音楽が演奏されました。
オーベルニュの人達は、故郷で演奏されているキャブレット(別名ミュゼット)というバグパイプを手にカフェの音楽を彩るようになります。
こういった集まりを「ル・バル・ミュゼット」と称し、そこで演奏する音楽を「ル・ミュゼット」と呼ぶようになります。
一方、イタリア人達はアコーディオンを持ち込み、これらキャブレット(バグパイプ)のレパートリーをアコーディオンに変換し、演奏するようになります。
このキャブレットとアコーディオンの融合がパリ独特の大衆音楽「ミュゼット」」の始まりと言えるでしょう。
その後1900年代に入ると、ジャズの影響を受けミュゼットはさらに変遷を遂げます。
特にジプシー・スウィングや、マヌーシュ・ジャズと言われたジャンゴ・ラインハルトの影響は大きなものでした。
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もともとジャズには2拍子が多いのですが、ミュゼットはダンス曲として3拍子が多く、ミュゼットの中へジャズが取り込まれることによって、いわゆるスウィング・ワルツやマヌーシュ・スウィングといった独特の曲想が発展していきます。
これによって、ミュゼットのスタンダードといわれ、現在も愛聴される楽曲も数多く生まれました。
さらにジャズのインプロヴィゼーションやモダンコードを取り入れ、大衆音楽から確固たる音楽ジャンルとして確立していきます。
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この結果、1950年頃にかけ、アコーディオン奏者が脚光を浴びるようになりその音楽は隆盛を誇りました。「パリのカフェの音楽」というイメージが確立したのもこの頃の事です。
Versatile
Versatile (2007)
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- Romance De Liffr
- Django Valse
- Ma P’Tite Chanson
- Joe Carton
- Les Feuilles Mortes
- Mon Oncle
- La Ritale
- Versatile
- Roses De Picardie
- Gino
- La Javanaise
- Stand Art Vals
- Place Montmartre
“衝撃”のデビューから6年後にリリースされた2ndアルバム。
前作がどちらかというと我々がイメージしている通りのフレンチ=アコーディオン的で郷愁を誘う楽曲が多かったのに対し、今作は様々な表情をもつ楽曲のオムニバスといった感じの構成になっています。
2.Django Valse(ジャンゴのワルツ)アコーディオニストのディディエ・ファーヴルとジャン・コルティと共作になるワルツ曲。いかにもという哀愁漂う旋律にマヌーシュ・ジャズを感じさせる曲です。
5.Les Feuilles Mortes(枯葉)スタンダードジャズの名曲としても知られるシャンソンの古典「枯葉」を、ボサノヴァ・アレンジに。
また、前作同様レ・テット・レッドとの共演となった6.Mon Oncle(僕の伯父さん)は同名の映画のテーマ曲で、そのカヴァーを。
さらに7.La Ritale(イタリア女)ではレ・テット・レッドのメンバーである女流チェロ奏者アンヌ=ガエル・ビスケーとの二重奏を聴かせてくれます。
タイトルVersatile(邦題:さまざまなジャン)の名の通りさまざまな楽曲と演奏を披露しており、まさにジャン・コルティのキャリアと実力の一端を垣間見せてくれるアルバムです。
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三度呼び戻された男
子供の頃は父親と同じ屑鉄屋になるものだと思っていた少年は、アコーディオンを手にし、その音に魅了されアコーディオン奏者になりました。
夢が叶い、順風満帆の音楽人生かと思いきや、ジャン・コルティ自身は意外にも音楽から足を洗おうとしていたのです。
そして、そのもくろみは三度失敗することとなったのです
一度目は、結婚を機に奥さんと美容院を営み、髪結いの亭主になろうとしましたが、断念。
またアコーディオンを弾くことになりました。
二度目は、音楽活動に終止符を打ち、南フランスでのんびり暮らそうとしましたが、先輩に呼ばれ、またアコーディオンを弾きました。
三度目は、その先輩との野暮用を済ませ、再度隠居生活をと決め込んだはずが、今度は孫ほども歳の違う若造に引きずり出され、またアコーディオンを弾きました。
「私は音楽から足を洗うことを考えていた。私は音楽に飽き飽きしていた。」
metacompany.jp『ジャン・コルティが語るアコーディオン人生』より引用
物心のつく頃から音楽で生計を立てていた彼はこう言いました。
しかし、嫌だ嫌だと言いながらアコーディオンを弾き続けたジャン・コルティ。
もしかするとこの言葉も彼なりのジョーク?
そんな彼の詳細については「JEAN CORTI 2」で。
つづく。