アフリカン・ミュージックといわれる音楽。
現在では多くのアーテイストを輩出しており、そのサウンドも色々なジャンルとミックスし多様化しています。
元々はアフリカの生活様式や伝統に基づいて形成されたアフリカ音楽。
しかし奴隷貿易などの歴史的背景などから世界に分散した彼らの音楽はそれぞれ各地で融合進化し、現在の様々な音楽ジャンルを形成したとされています。
サルサ、サンバなどのラテン・アメリカ・ミュージック、ブルースやジャズ発祥とされるニューオリンズでのデキシーランド・ジャズなどもそのひとつとされています。
各方面に影響を与えたアフリカ音楽ですが、アフリカ大陸内での音楽も、ルーツ的な音楽から独自に進化した音楽と多種多様です。
そんな生粋のアフリカ音楽を世界に知らしめた立役者の一人がSalif Keita(サリフ・ケイタ)。
伝統的なアフリカ音楽に現代的なサウンドを融合した彼の音楽は、世界的に評価も高く、その功績が讃えられています。
A scion of royal stock
Salif Keita(サリフ・ケイタ)。
1949年、西アフリカ・マリ共和国の首都バマコより西方の村、ジョリバに生まれました。
古代マリ帝国スンジャタ・ケイタ王家の直系の子孫として生まれ、王室家として裕福な境遇が約束されていました。
しかし、アルビノ(先天性色素欠乏症)であったため、社会から迫害とも言える差別を受けます。
アフリカの一部の地域では、アルビノの子供は不吉の前兆とされ、疎んじがられ最悪の場合殺されてしまうケースもありました。
サリフ・ケイタがアルビノとして生を受けたとき、彼と母親は王家の家系から追放されてしまいます。
しかし後に父親に受け入れられ最悪の事態は免れますが、一族やコミュニティからも疎んじられその暮らしは隠遁的で貧しいものでした。
彼は幼少期より音楽の才能を示し、10代の頃に音楽の道に進むことを決意。
グリオ系の音楽文化に身を投じることになりました。
グリオ(griot)とは、西アフリカの伝統伝達者のことで、単に楽器の演奏をするだけではなく、歴史の語り部や、情報、各家の系譜、生活教訓などをメロディーに乗せて人々に伝えることを本来の目的としています。
もともと文字の無かった時代の彼らにはグリオの役割は大きく、その知識量の豊富さから、代々宮廷に仕える芸能部門に属し、王の側近などに取り立てられるグリオもいました。
(セネガル出身で世界的なミュージシャン、ユッスー・ンドゥールはグリオの家系の出身)
しかし、グリオは社会的には最下層に位置付けられていた身分で、王族出身のサリフ・ケイタにとっては血縁を断つことと同様。
家族とさらに距離を置くことになってしまい、生計を得るために酒場でギターの弾き語りをして日銭を稼ぐという日々を過ごしました。
To Bamako
その後1967年、サリフ・ケイタはミュージシャンを志しジョリバを離れ首都バマコに移住します。
最初にミュージシャンとして加入したのが、政府が後援している国営ホテルの専属バンド、Orchestre Rail Band De Bamako(レール・バンド)でした。1970年のことでした。
その後1973年にLes Ambassadeurs Du Motel De Bamako(レ・アンバサドゥール・デュ・モテル・ドゥ・バマコ)というバンドに移籍。
このバンドもバマコの国営モーテルの専属バンドで富裕層や外国人が主な顧客でした。
バンド・メンバーもマリ以外のナイジェリアやコートジボワールのミュージシャンで編成されており、中でもKante Manfila(カンテ・マンフィーラ)というギニア出身のギタリストが在籍。
それまでキューバ音楽に影響を受けたラテン系のサウンドが主だったバマコの音楽シーン。
その中でも人気を二分していたのが他ならぬレール・バンドとアンバサドゥール。
そしてこのアンバサドゥールにマンフィーラ、さらにサリフ・ケイタが加入したことにより、アフリカの伝統を継承したサウンドに変化。
新たなバマコの音楽シーンを牽引していきます。
Mali ka Fasojamana
マリ共和国は長きに渡りフランスの植民地とされていました。
1960年にはその管理支配から解放され独立を果たしますが、社会主義体制からクーデター、そして独裁軍事政権と不安定な国家運営が続きました。
国内では紛争が絶えず、サリフ・ケイタ達の音楽活動も決して安全なものではありませんでした。
こうした政情不安から1978年8月、マリ共和国から脱出。
コートジボワールのアビジャンに拠点を移しました。
身の安全は確保されたものの、経済的には困窮し不遇の日々が続きました。
公演の為の機材にも事欠く状況でしたが、その実力が知られるとともに人気を博すようになりました。
そんな中作られたアルバムが「Mandjou」。
西アフリカ諸国で大ヒットとなる傑作アルバムとなりました。
アルバムタイトル曲の「Mandjou」はサリフ・ケイタが1977年に書き下ろした楽曲で、ギニア大統領Sékou Touré(セク・トゥーレ)を讃えた歌でした。
かつてセク・トゥーレがマリ共和国を公式訪問した際に、アンバサドゥールの音楽に触れファンになったといわれており、1976年にはサリフ・ケイタにギニア国家功労勲章を授与した経緯がありました。
その後、サリフ・ケイタがマリ共和国からコートジボワールに転出した後も支援者であり続けたセク・トゥーレに敬意を表すナンバーとしてこの曲を作曲したといわれています。
しかし、この直後皮肉にもセク・トゥーレは独裁政治を断行、ギニアを流血と混乱に陥れてしまうという愚策に走ってしまいます。
ここにも西アフリカ諸国の政情不安が影響、以後この楽曲はアレンジバージョンで演奏されています。
To Paris
1980年、サリフ・ケイタとマンフィーラらアンバサドゥールのミュージシャン達はアメリカ合衆国に渡りレコーディングを行いました。
4か月間程滞在し、2枚のアルバムを制作。
シングル・カットされたナンバー「PRIMPIN」はヒットしアフリカ発の音楽として注目を集めました。
しかし1982年、ケイタとマンフィーラの間での確執をきっかけにサリフ・ケイタはアンバサドゥールを脱退。その後1984年単身フランス・パリに拠点を移し、本格的にヨーロッパでの活動を開始。
なぜパリかというと、やはり長く続いたフランスの植民地時代と関連がありました。
かつて在籍したレイル・バンドはマリ共和国独立の1960年から10年後の1970年代ですが、その頃からフランスのレーベルからアルバムを発表しています。
そういった意味ではフランスはフランコフォン・アフリカ(フランス語圏アフリカ)の音楽に造詣があり、活動もしやすい利点がありました。
『SORO』
そして1987年にリリースされたのが、サリフ・ケイタの名を世界に知らしめた代表的なアルバム『SORO』。
『SORO』 (1987)
- Wamba
- Soro (Afriki)
- Souareba
- Sina (Soumbouya)
- Cono
- Sanni Kegniba
サリフの初のソロ名義の作品となる本作はセネガル人レコード・プロデューサー、Ibrahima Sylla(イブラヒム・シラー)がプロデュース。
アレンジをフランス人ミュージシャン、Francois Breant(フランソワ・ブレアン)らが担当。
サウンドの基本となるのはアフリカらしいパーカッションなどのリズムとコーラス。
これにシンセ・ストリングスやエレクトリック・ベースなどが加わり、独自の音楽性を打ち出した斬新なアルバムとなりました。
西アフリカの伝統音楽と、現代的な欧米サウンドを融合させた名盤です。
タイトル曲2.「Soro (Afriki)」ではサリフ・ケイタの圧倒的なヴォーカルを聴くことができます。
流暢で美しい歌声ではありませんが、力強く硬質な印象を受ける声質はグリオの伝統を汲む生命力と魂を感じさせます。
アルバムはアフリカ以外でも人気を獲得し、サリフ・ケイタの名は一躍、世界に知られることになりました。
To the world
KO-YAN (1989)
- Yada
- Nou Pas Bouger
- Ko-Yan
- Fe-So
- Primpin
- Tenin
- Sabou
アフリカ音楽史に残る傑作となった『SORO』から2年後の1989年にリリースされたアルバムがKO-YAN。
1st『SORO』の延長線上にあるとみられる内容ですが、前作よりリズムが強化され女性コーラスが印象的なアルバムです。
また、楽曲の大半は6/8拍子で叙情的で微妙なシンコペーションとリズミカルな対位法で構成されています。
その強力かつ繊細という重要なリズムを担ったのが、今回ドラマーとしてクレジットされているBrice Wassy(ブライス・ワッシー)。
西アフリカの音楽に多大な影響を与えたドラマー・パーカッショニストの一人で、そのリズムと演奏能力は、“King of 6/8 Rhythm”(6/8のリズムの「王」)と呼ばれました。
本アルバムでもブライス・ワッシーのリズムは、サリフ・ケイタのヴォーカルとともに躍動感に溢れ、アルバムのサウンドを決定づける大きな要因となっています。
5.「Primpin」は前述したアンバサドゥール時代のヒット曲のリメイク。
サリフ・ケイタのアルバムの中には、こうしたかつての楽曲のリメイク・バージョンを収録したものが含まれています
また、2.「Nou Pas Bouge」は2008年にフランスのラップ・グループL’Skadrille(スカドリル)がラップ・カヴァーし大ヒット。
マリ共和国やギニアといった西アフリカの国々一帯に広がる〈マンディング〉と呼ばれる文化圏独特の伝統音楽と、現代的エレクトロニクスが融合した調和のとれたアルバムです。
「Amen」 (1991)
- Yele N Na
- Waraya
- Tono
- Kuma
- Nyanafin
- Karifa
- N B’I Fe
- Lony
1991年にリリースされた第3作目のアルバムが「Amen」。
プロデューサーにウェザー・リポートのキーボード奏者、Joe Zawinul (ジョー・ザヴィヌル)を迎え制作。
同じくウェザー・リポートのサックスプレイヤーWayne Shorter(ウェイン・ショーター)もゲストミュージシャンとして参加。
この背景には当時のジャズ・フュージョン・シーンでは、新たなサウンドの可能性として変則的でダイナミズムなアフリカ音楽に着目しており、そんなフュージョン系のプレイヤー達の注目を浴びていたのが、サリフ・ケイタでした。
後にアフリカ音楽に限らずワールド・ミュージックを取り入れていくことになるウェザー・リポートですが、サリフ・ケイタとの共作はその契機だったのかもしれません。
ゲストミュージシャンとしては他にも、カルロス・サンタナ、アンバサドゥール時代の盟友だったバラフォン奏者、ケレティギ・ジャバテと豪華キャストが参加。
西欧の洗練されたサウンドとの融合の到達点ともいえる仕上がりです。
それを証するかのようにアルバムはビルボードのワールドアルバムチャートで1位を獲得。
また、グラミー賞最優秀ワールドミュージックアルバム部門にノミネート。
サリフ・ケイタの代表的なアルバムにして名盤です。
Folon (1995)
- Tekere
- Mandjou
- Africa
- Nyanyama
- Mandela
- Sumun
- Seydou
- Dakan-Fe
- Folon
1995年、リリースされたアルバムが『Folon』。
4年という期間をおいてのアルバムですが、この間もライヴをはじめ、サントラ制作など行っており様々な人々と共演。
その影響もあってか、自らの原点に立ち返り、パン・アフリカニズムを指向したアルバムです。
今回、大半の楽曲のプロデュースはWally Badarou(ウォーリー・バダロウ)が担当。
ハービー・ハンコックやブラック・ウフル、レベル42など多様なジャンルを手掛けたプロデューサーです。
インパクトのあるアフリカン・ファンクで始まる1.「Tekere」。
ストレートなレゲエ・ナンバーの8.「Dakan-Fe」。
そしてモノトーンのタイトル曲9.「Folon」などあらゆるタイプの楽曲が収録されており多様な内容。
特筆すべきは、アンバサドゥール時代のヒット曲2.「Mandjou」の再録。
10分と長尺のナンバーですがそれを差し置いても聴き込んでしまう名曲。
オリジナルより洗練された仕上がりで、サウンド面では比較対照され賛否両論あるものの、それらを一蹴するサリフ・ケイタの圧倒的なヴォーカルは必聴。
サリフ・ケイタの最高傑作との誉れも高いアルバムです。
To acoustic
Moffou (2002)
- Yamore
- Iniagige
- Madan
- Katolon
- Souvent
- Moussolou
- Baba
- Ana Na Ming
- Koukou
- Here
その後、数枚のアルバムを経て2002年にリリースされたアルバム『Moffou』。
世界的にも評価を高めワールドミュージックブームの立役者ともなったサリフ・ケイタ。
2000年代に入ると間もなく、活動の拠点をパリから故郷マリ共和国のバマコに移します。
それと共にレーベルもUniversal Music Jazz France –ユニバーサル・ジャズ・フランスに移籍。
するとレーベル側から新作リリースに際し、全編アコースティックによるアルバム制作の依頼が持ち込まれました。
初めての試みに当初、難色を示していたサリフ・ケイタでしたが本人自身も『Folon』以降、原点回帰の意向があったこともあり、制作を承諾。
新たなサウンドに取り組みます。
こうしてリリースされたアルバムが『Moffou』。
マリの民族楽器をメインにしたアコースティック作品で、ギターには盟友カンテ・マンフィーラが参加。
また1.「Yamore」ではゲストにCesaria Evora(セザリア・エヴォラ)を迎えそのヴォーカルをフューチャーしています。
2、5、8はアコースティック・ギターのみの弾き語りでシンプルでピュアなサウンドを聴かせてくれます。
アルバムはアコーディオン、ピアノの他、kamalengoni (カマレンゴニ) n’goni(ンゴニ)といった民族楽器がフューチャーされており、本来のサウンドを踏襲した内容です。
kamalengoni
n’goni
シンプルながら力強いアフリカン・グルーヴに、叙情的で美しいメロディ。
さらに円熟味を増したサリフ・ケイタのヴォーカル。
スピリチュアルな存在感すらあります。
単なるアフリカ音楽、ワールド・ミュージックという枠を超え、普遍的な響きを持ったアルバムに仕上がっています。
アルバムは各国で高評価を得て、多数のワールド・ミュージックの賞を受賞。
名盤と称されています。
M’BEMBA (2005)
- Bobo
- Laban
- Calculer
- Dery
- Ladji
- Kamoukié
- Yambo
- Tu Vas Me Manquer
- M’Bemba
- Moriba
- Calculer
『Moffou』に続いてリリースされたアルバム『M’BEMBA』。
今回もアコースティック編成によるサウンドで前作の延長線上にあるアルバムです。
また前作は活動の拠点をマリ共和国に移したものの録音はパリで行われたのに対し、本アルバムはマリの首都バマコに建設したサリフの新しいスタジオで録音されました。
サウンドもアコースティック・ギターに再びカンテ・マンフィーラが参加。
タイトル曲9.「M’Bemba」ではマリの至宝ともいえるコラ奏者Toumani Diabaté(トゥマニ・ジャバテ)が参加。
またこの曲はサリフの先祖である古代マリ帝国の始祖スンジャタ・ケイタを称える楽曲で、まさにマリ発のアフリカン・ミュージック。
無駄のないシンプルなリズムをベースに様々な音が折り重なる様は、素朴ながら躍動感にあふれたサウンドとなり自ずとアフリカの景色を想起させます。
さらにサリフ・ケイタのヴォーカルは以前より穏やかな表情を見せており、ルーツ回帰による確信、そしてある種の到達感すら感じられます。
La Difference (2009)
- La Différence
- San Ka Na
- Seydou
- Gaffou
- Folon
- Ekolo D’Amour
- Djélé
- Samiga
- Papa
そして2009年にリリースされたアルバムが『 La Difference』。
2002年リリースの『Moffou』から続くアコースティック3部作の最終章とされるアルバムです。
サウンド的にはまさに集大成とでも言うべき仕上がりで、ミュージシャンとして30年以上のキャリアを飾るに相応しいアルバム。
その一方で、本アルバムは別の重要な役割を担う特別なアルバムでもあります。
冒頭のサリフ・ケイタの経歴でも述べたように彼はアルビノとして生を受け、その不遇を克服してきました。
アルバムはそんなサリフ・ケイタ同様、アルビノに苦しむ人達のために作られたものでした。
彼らが直面する偏見、不公平、理不尽、苦しみに耐え忍ぶことへの敬意を表し、ポジティブなメッセージが込められたものとなっています。
アルビニズムは、生まれつきメラニン色素が少なかったり欠損していることで、肌や髪の色が白くなる病気。
民族や人種、性別にかかわらず、世界的に見られる遺伝性疾患です。また アルビニズムの人々は多くの場合、視力障害を持ち、直射日光に弱く、日焼け保護を怠ると皮膚癌罹患の危険性が高くなります。
全身が白いという特徴的な風貌のため奇異の目で見られ、偏見・差別などの弊害を伴うケースが多く最悪の場合虐待、殺害にまで至る場合もあります。
特に事態が深刻なのはサブサハラ・アフリカ(サハラ砂漠より南の地域)です。
白い身体が「幸運」を呼ぶという迷信を信じる人々によって呪術に使用する目的で、身体の一部を切断されたり、殺害されるなどの事例が数多く報告されています。
また2007年頃からタンザニアをはじめとするアフリカ東部では、アルビノを狙った誘拐・殺人事件が頻発。
タンザニアの呪術医たちがアルビノの人肉が「権力や幸福、健康をもたらす」と主張しているため、「薬」の材料として高値で取引されているからで、これまでにタンザニアやブルンジ、ウガンダなどでアルビノの人々数百人が殺害されました。
現在では国際機関や各国政府の介入によりこのような悲惨な現状は改善されてきていますが、まだ根強い問題を抱えています。
実は以前から彼は自分と同じアルビノを支援するための活動を展開しており、前作『M’BEMBA』のツアー内での支援活動や、赤十字社とともにアルビノを救済するためのキャンペーンを行ったり、積極的な活動を展開していました。
タイトル曲1.「La Différence」はまさにそんな楽曲。
悲観的になるのではなく、逆にアフリカならではの楽観さで前向きに快活にと、希望に溢れた力強いナンバーです。
さらに5.「Folon」、9.「Papa」など以前のナンバーのセルフカヴァーも収録。
その2曲をJoe Henry(ジョー・ヘンリー)がプロデュース。
新たなテイストでのサウンドと深みを増したサリフ・ケイタのヴォーカルの存在感が印象的です。
8.「Samigna」ではレバノンのトランペット奏者Ibrahim Maalouf(イブラヒム・マアルーフ)が参加。
ソウルフルな音色に彩られています。
アルバム全体としても、アルビノ救済のみならずエコロジーや民政など社会的、政治的なメッセージも歌われており、これまでになく主張したアルバムと言えるでしょう。
アルバムはフランス文化省が音楽業界における優れた功績を称えるVictoires de la Musique(ヴィクトワール・ドゥ・ラ・ミュージック)において、2010年ワールド・ミュージック・アルバム・オブ・ザイヤー賞を獲得しました。
Another White
Un Autre Blanc (2018)
- Were Were
- Syrie
- Tonton
- Itarafo (Featuring – Angélique Kidjo, MHD)
- Diawara Fa (Featuring – Yemi Alade)
- Bah Poulo
- Tiranke
- Lerou Lerou
- Ngamale (Featuring – Ladysmith BlackMambazo)
- Mansa Fo La (Featuring – Alpha Blondy)
2018年10月にNaïve Recordsからリリースされたアルバム「Un Autre Blanc」。
フランス語で「もう一つの白」という意味のタイトルは、サリフ・ケイタ自身もそうであり、前作でもテーマにしたアルビノのことを指しています。
そして同年マリ共和国ファナでのコンサートで自らレコーディングからの引退を発表。
自身のキャリアに幕を下ろすことになり、事実上のこれがサリフ・ケイタの最後のスタジオ・アルバムとなりました。
西欧サウンドとの融合で世界にアフリカ音楽を発信。
多大な貢献を果たし、その後ルーツ回帰によるシンプルなサウンドを展開したサリフ・ケイタ。
今回はその両方が絶妙なバランスで調和した新たな境地を見せてくれます。
そしてこのアルバムに参加したゲストも豪華。
前述の1991年制作のアルバム『Amen』にも参加し、ジョー・ザヴィヌルのバンド・ザヴィヌル・シンジケートのメンバーの Paco Sery(パコ・セリー)、ベーシストでセネガル出身のAlune Wade(アリューン・ウェイド)ギニア出身、レイル・バンドの同士、Mory Kante(モリ・カンテ)もほぼ全曲で参加。
旧知のメンバーがサウンドを支えます。
4.Itarafo ではアフロポップのAngélique Kidjo(アンジェリーク・キジョー)とデュエット、さらにラップをMHDが担当。
5.Diawaraではナイジェリアの歌手Yemi Alade(イェミ・アラデ)を起用。
9.Ngamaleバンバラ語とズールー語を混ぜたズールー・コーラス・チームLadysmith Black Mambazo(レディスミス・ブラック・マンバーゾ)の多声歌唱法とを織り交ぜています。
そして最後10.Mansa Fo laではコートジボワールのレゲエ・ミュージシャン、Alpha Blondy(アルファ・ブロンディ)とともにレゲエを通じて神の慈悲を称えた内容。
多彩なゲストを招いて充実したラインナップの本アルバム。
キャリア最後となった本アルバムでもその探究心と挑戦心は衰えることはなく、その幕引きが惜しまれます。
End of the journey
王族の血筋を引く身分に生まれながら、アルビノを理由に家族から追放。
故郷のジョリバを離れ、1967年に始まった波乱の旅は、2018年意外にも自らの幕引きという結果を迎えました。
世界に認められたその天賦の才の「引退」を惜しむ声は多く聞かれます。
しかし、サリフ・ケイタが自らの出生を見つめ直し、自身のアイデンティティと結びついた最後の音楽的声明である「Un Autre Blanc」には祝福にも似た達観があり、彼の選択も理解できます。
我々全ての人々があらゆる違いを受け入れ、そして争いを終わらせるという願いが込められたアルバムは一筋の希望の光を放ち続けています。