時は1940年代末から1970年代前半。
場所はニューヨーク。
突如として現れた盲目のストリートミュージシャン、ムーンドッグ。
彼はその奇抜な出で立ちから「6番街のヴァイキング」と呼ばれました。
from moondog-music.com
独自の楽器を使い、特徴あるその音楽は、行きかう人々はもちろん様々なミュージシャン達をも魅了しました。波乱に満ちたムーンドッグの生涯。その続編です。
Unexpected trouble
ムーンドッグの作り出す音楽はストリートのさまざまな音(霧信号所、路面電車、足音、エコー、サイレン)からインスピレーションを得た音と、ネイティブアメリカンのリズムを融合させた、それまでに類を見ないものでした。
その独特な音楽は様々なジャンルの音楽家達から注目を集めました。
1940年代の時点でムーンドッグを最初に取り上げたのは、Artur Rodziński(アルトゥール・ロジンスキ)という人物。ニューヨーク交響楽団の指揮者でした。
1949年に最初のレコード「Moondog’s Symphony」をリリースした後、多数のムーンドッグの作品がSP盤、シングル盤、EP盤や、LPとして有名なジャズ・レーベルからもリリースされるようになりました。
しかし、徐々に知名度が上がってきたとはいえ、あくまでも彼の生活拠点はストリート。
そして生活費をかせぐために、自身の音楽性や詩に関する哲学を冊子にして販売したり、そのライフスタイルは変わらず、常に路上にありました。
そんなホームレスのような生活ならば、必然的にトラブルはつきもの。
ムーンドッグも例外ではありませんでした。
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1950年11月、彼は音楽で通行人を勧誘したことと、10歳の少年の助けを借りて彼の新作を宣伝するチラシを配ったという理由で逮捕されました。
どちらも人々の関心と善意によるものだとされますが、当時、経済、文化の栄華を誇ったマンハッタンでは一介のストリートミュージシャンによる騒動は排除の対象となったのかもしれません。
またその一方で「ムーンドッグ」盗用のトラブルにも。
「Moondog’s Symphony」をリリースした後のことでした。
クリーブランドのアラン・フリードという若いDJが「Moondog’s Symphony」のコピーを手に入れ、すぐにそれに夢中になりました。彼は自分の番組を「The Moondog Rock and Roll Matinee(ザ・ムーンドッグ・ロックンロール・マチネー)」と呼び始め、さらに自らを「The King of the Moondoggers」と名乗り、ムーンドッグのアルバムを自分の番組の主題歌として許可なく使用しました。
当然、実際のムーンドッグを知る人々からは抗議の声と共に、提訴するよう勧められました。
やがてムーンドッグはアラン・フリードを訴え、ニューヨーク州高位裁判所における裁判に勝訴。
裁判では、フリードが「ムーンドッグ」と名乗りはじめるはるかに以前から、ハーディンがムーンドッグの名で知られていたと認定され、フリードは謝罪。
ムーンドッグの作品は著作権で保護されていませんでしたが、彼は個人的な損害賠償として6,000ドルを与えられ、フリードは「ムーンドッグ」の使用を中止せざるを得ませんでした。
そしてここで重要になったのはムーンドッグを擁護した支援者達でした。
その中には親交のあった指揮者のArturo Toscanini(アルトゥーロ・トスカニーニ)やジャズミュージシャンのBenny Goodman(ベニー・グッドマン)らの音楽家の名がありました。
Arturo Toscanini from wikipedia
Benny Goodman from wikipedia
ムーンドッグの稀有な才能を早くから認知していた彼らが、真っ当な作曲家であると証言してくれたからであり、その支援がなければ、この裁判には勝てなかったと言われています。
一見すれば風変わりな格好をしたホームレス。
まさかそんな人物が、著名な音楽家達から支持される「更なる音楽家」であるとは思いもしないでしょうから。
そしてムーンドッグの音楽やライフスタイルは、様々な方面に影響を及ぼしていくことになります。
The impact of Moondog
ムーンドッグの音楽は1940年代~1950年代にかけて何枚かのアルバムなどのリリースにより、その存在を知られるようになりました。
しかし、その独特な音楽性は一般大衆的にはなかなか受け入れがたい難解なものでした。
今でいうミュージシャンズ・ミュージシャンといった方が分かりやすいかもしれません。
実際、ムーンドッグの音楽を称賛、評価する“ミュージシャン”は数多く、先述の指揮者のArturo Toscanini(アルトゥーロ・トスカニーニ)やLeonard Bernstein(レナード・バーンスタイン)
ジャズミュージシャンのBenny Goodman(ベニー・グッドマン)やCharlie Parker(チャーリー・パーカー)Charles Mingus(チャールズ・ミンガス)、Kenny Graham(ケニー・グラハム)などから支持されていました。
Charles Mingus from wikipedia
Kenny Graham from wikipedia
またその音楽は、後にミニマル・ミュージックと呼ばれるジャンルの作曲家たちに強い影響を与えました。
このミニマル・ミュージックとは音の動きを最小限に抑え、パターン化された音型を反復させる音楽で、現代音楽のムーブメントのひとつとされるもの。
そしてさらにはテクノ・ミュージック、エレクトロポップ、アンビエント・ミュージックへと派生、進化していくもので、ムーンドッグの音楽はまさにその原型といわれています。
Steve Reich from wikipedia
Philip Glass from wikipedia
そのミニマル・ミュージックを代表する作曲家Steve Reich(スティーヴ・ライヒ)やPhilip Glass(フィリップ・グラス)は、ムーンドッグの作品を「学んでいたジュリアード音楽院での理論より、ずっと理解出来る歓迎すべき音楽だった。」と述べ、彼と一緒に作品を録音しました。
また、意外にも女性ロック・シンガーのJanis Joplin(ジャニス・ジョプリン)は、自身が在籍したバンド、Big Brother and The Holding Companyと共にムーンドッグの曲「All Is Loneliness」のカバーを録音し、ムーンドッグをカウンター・カルチャー新世代の先駆けとして紹介しました。
こちらがムーンドッグのオリジナルヴァージョン「All Is Loneliness」です。
そしてこちらがジャニス・ジョプリンによるカヴァーバージョン。
ムーンドッグのシンプルなカノンをベースにジャニスの解釈で広がりを持たせたヴァージョン。
当時の1960年代のヒッピー・ムーヴメントを反映した楽曲にアレンジされています。
クラッシックからジャズ、そしてロックまで影響を与えたムーンドッグの音楽。
そして、自身の音楽の転機とも言えるアルバムがリリースされることになりました。
Sound of Moondog
1969年、ムーンドッグにとって約10年ぶりのアルバムがリリースされました。
プロデュースしたのはJames William Guercio(ジェームス・ウィルソン・ゲルシオ)。
ロックバンド“シカゴ”や“ブラッド、スウェット&ティアーズ”のプロデューサーでもあった人物です。
James William Guercio
一見すると畑違いにも思える組み合わせですが、ゲルシオは数年前にムーンドッグに会い、彼の作品を賞賛し、コロンビアにムーンドッグのアルバムを制作させるよう説得、リリースに至ったと言われています。
Moondog (1969)
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- Stamping Ground A
- Symphonique #3 (Ode to Venus)A
- Symphonique #6 (Good For Goodie)
- Minisym #1 I – Allegro B
- Minisym #1 II – Andante adagio B
- Minisym #1 III – Vivace B
- Lament I, “Bird’s Lament” B
- Witch of Endor I – Dance
- Witch of Endor II – Trio; A. Adagio (The Prophesy)
- Witch of Endor II – Trio; B. Andante (The Battle)
- Witch of Endor II. Trio; C. Agitato (Saul’s Death)
- Witch of Endor III – Dance (Reprise)
- Symphonique #1 (Portrait of a Monarch)
10年前にリリースされた4枚のアルバムはストリートでの音源を主体に編成されたものでしたが、このアルバムはムーンドッグが50人のミュージシャンを指揮し、コロンビア・レコードのメインスタジオで録音されました。
またこの頃、ムーンドッグはそれまでのインスピレーションによるジャズ寄りの作曲手法から、カノンやシャコンヌといったクラッシックの手法に則った作曲へ移行していた時期でもありました。
そのため、クラシックの影響と批評家がミニマルミュージックやサードストリームと呼んでいる要素が組み合わされたアルバムになっています。
3.「Symphonique#6(Good forGoodie)」はジャズのスウィングの影響を思わせ、作曲にはメロディックなディテールがたくさんあります。ベニー・グッドマンを彷彿とさせるクラリネットが印象的です。
また、7.「Lament1(Bird’s Lament)」は、サックスがメロディーを際立たせるシャコンヌです。
親交のあったチャーリー・パーカーの死後作曲されたもので、ムーンドッグが彼を称えて作られたと言われています。
Moondog 2 (1971)
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- Bells Are Ringing
- Voices Of Spring
- What’s The Most Exciting Thing
- All Is Loneliness
- My Tiny Butterfly
- Why Spend A Dark Night With Me
- Coffee Beans
- Down Is Up
- Be A Hobo
- Remember
- I Love You
- Nero’s Expedition
- No, The Wheel Was Never Invented
- With My Wealth
- This Student Of Life
- Some Trust All
- Wine, Woman And Song
- Sadness
- Maybe
- Each Today Is Yesterday’s Tomorrow
- Imagine
- You The Vandal
- Trees Against The Sky
- Behold
- Sparrow
- Pastoral
前作から2年後にリリースされたアルバム「Moondog 2」。
このアルバムは1969年のアルバム「Moondog」の続編とも言うべき作品です。
前作同様、ジェームズ・ウィリアム・ゲルシオによるプロデュースですが、主にオーケストラによって演奏された彼の前作のインストルメンタルアルバムとは異なりカノン、ラウンド、マドリガーレのヴォーカルをメインとした楽曲が大半を占めています。さらにヴォーカリストにムーンドッグの娘ジューン・ハーディンを迎えたことによりポップな印象を受ける効果を得ました。
また、4.「 All Is Loneliness」は先述のように1968年にジャニス・ジョプリンがカヴァーした曲。
そのことを聞いたムーンドッグはこのアルバムでは新たなヴァージョンでこの曲をリメイクしています。
original Beatnik?
ムーンドッグの存在は音楽のみならず、文化世相にも影響を与え、そして彼自身もその波に飲み込まれていきました。
特定の住所を持たずストリートを主とした生活。
一見すると何の価値観にも捉われず、自由奔放。
アーティストとしては理想のスタイルなのでは?
from londonjazznews.com
ムーンドッグがニューヨークに現れた1940年代終盤から1960年代。
奇しくも時を同じくして、あるムーブメントが沸き起こります。
その思想・活動はビート・ジェネレーション( Beat Generation)と呼ばれ、経済的物質主義の拒否、スピリチュアル世界への傾倒、人間らしさの探究といったもので、このライフスタイルを実践する者はビートニク(Beatnik)と呼ばれ、このビート・カルチャーは文化・政治に対して大きな影響力を及ぼしました。
最盛期にはJack Kerouac(ジャック・ケルアック)やAllen Ginsberg(アレン・ギンズバーグ)そしてウィリアム・バロウズといった作家たちが活躍、そしてこの文学運動の思想や行動様式は1960年代に、より大きなカウンターカルチャー運動であるヒッピー文化に取り込まれていきました。
Jack Kerouac from wikipedia
Allen Ginsberg from wikipedia
こういったムーブメントの中、突如ストリートに現れたヴァイキング=ムーンドッグは、まさにケルアックの「路上」を体現した人物、そしてビートニクそのものとして注目されました。
ムーンドッグの既成概念に捉われない独創的で自由な音楽とライフスタイル。
William・S・Burroughs
from facebook
Ravi Shankar
from The Rolling Stone interview
影響は音楽だけに留まらず、これらビートニクの詩人William Seward Burroughs(ウィリアム・S・バロウズ)、アレン・ギンズバーグ、有名なシタール奏者のRavi Shankar(ラヴィ・シャンカル)などとステージを共有しました。そして「ビートニク以前からのビートニクの住人」と言われ偶像視されました。
「Moondog」「Moondog 2」のリリースによってムーンドッグの存在はさらに多くの注目を集めました。
ムーンドッグは新聞やラジオでインタビューを受け、テレビ番組にも出演しました。
最初にリリースされた「Moondog」は高評価を得ました。
ニューヨークマガジンが
「ブラームスやメンデルスゾーンを彷彿とさせるクラシカルな要素とムーンドッグ独自のリズミカルで開放的な質感が見事に融合されたアルバム」
と評したように、各メディアや雑誌は軒並み好意的な解説で彼の音楽を賞賛しました。
しかし、当のムーンドッグは賞賛の声も何処吹く風、何も変わりませんでした。
ストリートに立ち音楽を続けました。
すると、以前とは違い、大勢の人だかりができ、警察から演奏中止を求められ一時的なストリートからの撤退を余儀なくされることもしばしばでした。
そしてムーンドッグのヴァイキング・スタイルの偏執を、皮肉を込め「異形の存在」としたメディアの記事なども彼の失望を招いてしまいます。
ムーンドッグは純粋に音楽を追求し、好奇心を持ち続ける事を理想としていただけでした。
アルバムによって生じた地位や名誉には全く興味がありませんでした。
また以前も、その風貌から通行人に「イエス・キリストのようだ」と言われていたことにも彼は辟易していました。
そう、彼はキリストでもなく、「ビートニクのためのビートニク」でもなく、「月に吠える犬」ムーンドッグ。
それ以上でもそれ以下でもありませんでした。
快適だったはずのストリートが、窮屈になり始めた彼はニューヨークを後にしました。