PR

Peg Leg Sam(Arthur Jackson)

Peg Leg Sam 音楽

 

1920年代後半からアメリカ合衆国の東海岸を放浪、その後メディシンショー(薬売りのショー)での“巡業”を生業とし、人生の大半を旅したブルース・ミュージシャンがいました。

彼の名はPeg Leg Sam(ペグ・レッグ・サム)。

Peg Legとは木製の義足のこと。
事故で片足を失った彼は「義足のサム」の異名で呼ばれるようになりました。

しかし、ハンディキャップをものともしない彼のライフスタイル、そして独自の自由なピードモント・ブルース(※)は後のブルース・シーンに多大な影響を与えました。

ブルース発祥の時期から発展時期への過渡期に特異な存在感を示したペグ・レッグ・サム。

彼の音楽を辿ります。

※ Piedmont Blues(ピードモント・ブルース)とは?
ピードモントとは、アメリカの南東部アパラチア山脈南東の麓一帯バージニア州からノースカロライナ州、ジョージア州にまたがる地域を指します。この地域のブルースは、ミシシッピやテキサス、シカゴ・ブルースといった有名どころと比べると陰が薄い存在です。実際、デルタブルースと聴き比べると一般的に軽い明るいノリの曲が多く、この地域のブルースはラグタイムの影響がみられると言われています。
スポンサーリンク

Arthur Jackson

Arthur Jackson(アーサー・ジャクソン) 通称ペグ・レッグ・サムは、1911年アメリカ合衆国サウスカロライナ州ジョーンズビルに生まれました。

農夫である父親デイビッド・ジャクソンと妻エマのもと6人兄弟姉妹の4番目として生まれ、家族皆で一部屋の丸太小屋で暮らし育ちました。

幼少期から家族の農場で働き、雨が降ったときだけ学校に通うという厳しい生活を送っていました。

「農場でいつも何かやることがあった。家にいたら何もわからなかっただろうし、ラバを耕す以外何もできなかっただろう。何もないところから何も残らない。6月、7月、8月には16時間、朝から晩まで働いた。ラバを耕して一日中夜まで耕すと、起きたときも横になったときと同じくらい疲れを感じる。夢を見ながら夜中も耕した。」
出典:ダニエル・W・パターソンとアレン・E・タロス著

後にサムはこう回顧しています。

そんな質素で厳しい生活の中でも、唯一の光明はクリスマスプレゼントで買ってもらったハーモニカでした。

「父がクリスマスに 10 セントのハープを買ってくれたことがあって、人々が『ルーベン』という曲を演奏しているのを耳にしたんだ。その曲を演奏したくてたまらなくなったよ。」

実は母親のエマは、教会でオルガンとアコーディオンを演奏するミュージシャンでもありました。

サムは少しでも上手くなりたい思いから、バトラー・ジェニングス、ビガー・マップス、サン・ジェニングスといった地元の人達の演奏を聴きながら、ハーモニカ演奏を覚えていきます。

やがて12歳になるとサムは自ら家を出ました。
長きに渡る放浪生活の始まりでした。

夏はカナダやニューイングランドへ、寒くなるとカリフォルニアやフロリダへ放浪。

ニューヨーク州バッファローへの旅の際には、凍傷で瀕死の状態になり、爪と耳の一部を失いました。

メイン州でジャガイモ掘り、再び南下しフロリダでサトウキビ刈り、カリブ海で船上労働など雑用仕事を転々とします。

不安定な収入と危険と隣り合わせの暮らしの挙句、少年院やジョージア州の刑務所農場で服役。

波乱の放浪生活を送ります。

そして1920年代のある時、サムはスパルタンバーグでジョージア州アトランタのハーモニカプレーヤー、Keg Shorty Bell(ケグ・ショーティ・ベル)と出会いました。

このベルから、彼が現在使用している (古いアコーディオン スタイルとは対照的な)モダン・スタイルのハープを教わり、独学で演奏法を習得していきます。

やがて、そんな流浪の中でも路上でハーモニカを演奏するように。
演奏でチップをもらうこともしばしばで、独学のハープ奏法に経験値が加味されていきました。

スポンサーリンク

Peg Leg Sam

そして1930年ノースカロライナ州ローリー近郊で、何日も放浪し空腹で意識朦朧とした状態で、貨物列車から転落。

この事故で顔にケガを、そして膝から下を切断。
片足を失ってしまいます。

そしていつしか付いた名がPeg Leg Sam(ペグ・レッグ・サム)。

大事故にもかかわらず、彼は古いフェンスの支柱から義足を作り路上に戻りました。

そして再び“日常”を送りはじめますが、少しずつ周辺の環境が変化していきます。

「その頃からハープが上手になり始めたんだ。それで何かができたんだ」
やがて、以前メディシンショーで知り合いギターを学んだ
Pink Anderson(ピンク・アンダーソン)と一緒に巡業するようになります。

Pink Anderson&Peg Leg Sam
from sundayblues.org

Pink Anderson(ピンク・アンダーソン)
1900年サウスカロライナ州ローレンス生まれのシンガー兼ギタリスト。
ピードモント・スタイルのフィンガーピッキングのギターを弾くイーストコースト・ブルースの知る人ぞ知る名ギタリスト。同じくサウスカロライナ州生まれのサムとは1920年代前半にメディシンショーで知り合い旧知の仲だったといわれています。

Medicine Show (メディシンショー)

では、ここで登場したMedicine Show(メディシンショー)とは?

そもそもブルース発祥は19世紀後半ごろに米国深南部で黒人霊歌、フィールドハラー(労働歌)などから発展したものと言われています。

そしてさらに歴史を紐解くと1865年まで続いた南北戦争の後、1880年代後半から1990年代にかけて民衆に人気を博したメディシンショーに遡ります。

その名の通り「薬売り」ショーで南北戦争後、薬を売るための規制も緩やかだった時期に流行った見世物でした。

日本でいう“ガマの油売り”のようなもの。

ただ検閲がないため、ドラッグや「薬」といえど効能が怪しいものが多かったと言われています。

The Traveling Medicine Show: Pitchmen & Plant Healers of Early America
by Jesse Wolf Hardin

 

またメディシンショーで集客するためにミュージシャンによる音楽や、コメディ、ダンスなどを織り交ぜて興行。

メディアも無い当時は、ある種娯楽ショーとしても周知されていました。

from showmensmuseum.org

この時代に生まれメディシンショーなどで地方を巡業していたミュージシャン達は、「ブルース第一世代」といわれ、その音楽はブルースの原点といわれています。

in the middle of a journey

メディシンショーで各地の巡業を始めたペグ・レッグ・サム。

1936年、ノースカロライナ州ロッキーマウントのフェナーズ タバコ倉庫の周辺で、路上ライブをしているサムの演奏を店主のフェナーが気に入り、ラジオ出演を企画。

これを機に1951年までの15年間、サムは不定期ながらも毎年数か月間このタバコ倉庫で働きながら演奏。
その期間彼は毎日朝の15分間のラジオ放送で紹介され、後年は地元のテレビでも放送。

サムは次第にその名を知られるようになります。

同時に 2 つのハーモニカを演奏したり、鼻でも演奏。
加えて冗談を交えて歌うスタイルは人気を博し、メディシンショーの常連アーティストに。

巡回公演に人生のほとんどを費やしていきます。

メディシンショーで演奏をしていく中、1970年ブルース・バスティンとピート・ローリーに見出され、最初のアルバムを制作する機会を得ました。

Medicine Show Man(1973年)

  1. Who’s That Left Here ‘While Ago
  2. Greasy Greens
  3. Reuben
  4. Irene, Tell Me, Who Do You Love
  5. Skinny Woman Blues
  6. Lost John
  7. Ode To Bad Bill
  8. Ain’t But One Thing Give A Man The Blues
  9. Easy Ridin’ Buggy
  10. Peg’s Fox Chase
  11. Before You Give It All Away
  12. Fast Freight Train
  13. Nasty Old Trail
  14. Born In Hard Luck

1973年にリリースされたアルバムMedicine Show Man」
楽曲ナンバーは
1970年8月から1972年12月にかけて録音されたものです。

実にサムが60歳代に入ってからのレコードデビューでした。

アルバムではギタリストのBaby Tate(ベイビー・テイト)とサムの幼なじみでもあるHenry “Rufe” Johnson(ヘンリー・”ルーフェ”・ジョンソン)が伴奏、サムと息の合った演奏を聴かせてくれます。

【ベイビー・テイト (トラック:1、5、9、12 )、ヘンリー・ジョンソン(トラック:4、11 )】

6.「LOST JOHN」はサムが最初に習った曲で、伝統的な曲。
よく「トーキング・ハーモニカ」と呼ばれたりしています。

アルバム全体としては、古くからあるスタンダード・ナンバーのカヴァーを含め、歌詞やサウンドをアレンジしたものなど、ショーマンシップが遺憾なく発揮された内容。

ハープとピードモンド・ブルースを知るには聴いておきたい価値のある一枚です。

The Last Medicine Show(1974年)

  1. John Henry
  2. Greasy Greens
  3. Straighten Up And Flyright
  4. Hand Me Down
  5. Who’s That Left Here A While Ago?

One Mint JulepMonologues between songs:
– medicine show intro monologue
– snake oil pitch
– corn solvent & black salve pitch
– final sale pitch for all products

翌1974年にリリースされたアルバムがThe Last Medicine Show」

録音は、1972年9月15日から翌9月16日にかけてノースカロライナ州ピットボロで行われました。

このメディシンショーはチーフ・サンダークラウド(レオ・カドット)が主宰したもので、ペグ・レッグ・サムのハープ演奏やトークが収録されています。

ただし、演奏よりもサムの口上やトークの方がメインで、メディシンショーの実録、ドキュメンタリー音源といった方が良いかもしれません。

ちなみに「One Mint JulepMonologues between songs」としてクレジットされているのは、いわゆる曲間のトークで、
– 薬売り場のイントロの独白
– ヘビ油の売り込み
– トウモロコシの溶剤と黒軟膏の売り込み
– すべての製品の最終販売の売り込み

と言った内容で当時の“薬売り”の様子を窺い知ることができます。

またこのメディシンショーはタイトル通り、アメリカ合衆国における最後のメディシンショーの公演であるとされており、リアルで貴重な録音資料でもあります。

「Born For Hard Luck」

そして特筆すべきは1976年に公開された「Born For Hard Luck」

この映画はTom Davenport(トム・ダベンポート)監督によるドキュメンタリー映画で、1972年にノースカロライナ州の郡フェアで行われたメディシンショーでのペグレッグサムのパフォーマンスが描かれています。

ライブのメディシンショーを撮影した唯一のフィルム記録でもあり、その貴重性や文化的意義から

・シンキングクリーク映画祭ー審査員賞、
・アテネ映画祭ー最優秀ドキュメンタリー賞、
・ワシントン映画祭ー最優秀ドキュメンタリー賞

など様々な賞を受賞。

歴史的意義を有する記録映画としての評価も高く、一見の価値ありです。

ちなみにジャン=ピエール・ジュネ監督のフランス映画『アメリ』の中で、この「Born For Hard Luck」でサムが踊っているクリップが使われています。

I have to go now

60歳を超えてからアルバムリリース、映画出演と、晩年になってから脚光を浴びたペグレッグサム。

上述のアルバムの他にもルイジアナ・レッドとのライブ録音などもリリースしましたが、レコーディング業界に見出されてからわずか5年後、65歳で亡くなりました。

少ない音源にもかかわらず、彼の音楽は後のブルース・シーンに多大な影響を与えました。

その人生の大半を“巡業”という放浪に費やし、民衆と向き合ったペグレッグサム。

自由で冒険的、命知らずで奔放なイメージに包まれた街角のミュージシャンは、実は言いようのない“心の重石”を抱えていました。

生を受けた時から黒人差別のジム・クロウ制度の時代を生き、19歳で片足を失い障害を背負うことになった、まさに「Born For Hard Luck」(不運のために生まれた)義足のサム。

ジム・クロウ制度とは?
1876年から1964年にかけて存在した、人種差別的内容を含むアメリカ合衆国南部諸州の州法の総称。広義には、アメリカの黒人差別体制一般のことを言います。

その“重石”の一つは他のこの時代の黒人ミュージシャンと同様で、理不尽な差別です。
加えて、障害を持ち
虐げられた者としての上流社会や定住社会に対する敵意にも似た反感は明確で、メディシンショーでの彼の歌の中に、また口上のジョークの中にアイロニーとともに込められています。

しかし、絶望し自暴自棄になってもおかしくない状況でも彼はしたたかでした。

その根底にあったのがハープと、どこか陽気なピードモント・ブルース。
そしてそれ以上に彼の背中を押し続けたのは好奇心と探求心。

次の曲がり角を曲がった先に何があるのか分からないのなら、立ち止まるよりも角を曲がる選択をするはず。
期待に胸を膨らませながら。

ドキュメンタリー映画「Born For Hard Luck」の終盤、

「ハイシェリフ(髙保安官)が後ろにいるから、そろそろ行かなきゃ」

と歌う義足のサム。

次の町へまた旅が始まります。

タイトルとURLをコピーしました